あらすじ
息子が不登校になった検事の啓喜。
誰にも言わない秘密を抱えながらショッピングモールで淡々と働く女性、夏月。
夏月の中学校の同級生だった佳道。
大学でミスコンを運営する、あるコンプレックスを抱えた八重子。
八重子から特別な思いを寄せられる美青年、大也。
彼らはそれぞれ、人知れず生きづらさを抱えて生きている。
そんな彼らの人生が、とある事件を軸にして重なり合う。
普通とは何か?
正しさとは何か?
多様性とは何か?
個の時代、世間が声高に叫ぶ、「多様性を認める」というメッセージが含む意味について、今一度立ち止まって考えさせられる物語。
読んだ感想
現代は、「多様性」だとか「自分らしさ」を認める風潮がますます尊ばれている時代だ。
もちろん、それは自由な現代社会を生きる上で大切なことだと思う。
ただ、なんでもかんでも一括りにして、「多様性」という言葉に収集される現実に、なんとなく違和感を抱いてしまうこともある。
もはや思考停止に陥っている日本人がどれほどいるのだろうか。
自分には理解できないもの、受け入れがたい価値観に出会ったとき、人はそのものについてきちんと向き合い、考えることを放棄し、「多様性」とい概念のボックスに放り込んでしまう。
そして、その「多様性」ボックスに入れた後は、その中から取り出して目を凝らすことは一切ない。
自分の人生に関わらせる気はないのだ。
これは、「そういう価値観の存在自体は否定しないけど、こちらの人生の領域に入ってくることは許さない」という姿勢をとっているに過ぎない。
「多様性を認める」というのは
それらを「肯定している」ことなのか?
それとも、「無関心」の態度をとっているだけなのか?
「多様性」とは何か?
どこからが尊い「個性」で、どこからが「異常」なのか?
その線引きは何によってなされるのか?
話は少しずれるが、これは「芸術」の世界でも言えることだと思う。
それが「価値のある芸術」なのか、
はたまた、ただの「気味悪い」なのか「コワい」なのか「エロ」なのか「グロ」なのか。
自分のような平凡な人間からすると「これは…?」となってしまう作品でも、芸術に通ずる人が「芸術だ」と認めているものならば、「そういうもんなんだな。」と受け入れてしまう。
これは、その「道のプロが言うんだから」といって、思考停止している状態だ。
話をもとに戻したい。
この作品を読むと、あらゆる概念や、二項対立とされている価値観について、その線引きは何によってなし得るのか?が全く分からなくなる。
自分の立っている地面がグラグラと音を立てて崩れていく感覚。
ー読む前の自分には戻れないー
そんな言葉が本の帯に書いてあったが、この言葉の意味が驚くほどに、腑に落ちた。
すべての概念が根底から覆される、そんな感覚を味わった作品だった。
印象に残った一節
みんな本当は、気づいているのではないだろうか。自分はまともである、正解であると思える唯一の依り所が“多数派でいる”ということの矛盾に。
朝井リョウ著『正欲』本文より
3分の2を2回続けて選ぶ確立は9分の4であるように、“多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派であることに。
この文章を読んだとき、ハッとした。
2/3×2/3=4/9
なんてことない分数の掛け算。小学生や中学生でも分かる。
そんな簡単な掛け算の式。しかし、この数字に人間の“多数派”と“少数派”を当てはめるとどうだろう。
途端に、とんでもない事実を我々に突き出しているような式に見えてくる。
何かの選択を迫られたとき、「目立たないように」、「みんなと同じになるように」、“多数派”を選ぶというのは誰でも日常の中で経験することだと思う。
だがその、“みんなと同じを選び続けた人”は、いつのまにか
“人より特殊な人”の方に立場が変わっているのだ。
“多数派”の選択肢を選び続け、どんどん“多数派”の中に埋もれることができていると思っていた人は、いつのまにか“多数派”の枠から外れ、“少数派”になっているのである。
こんな皮肉な現実に、誰が気付いているだろうか。
「そんなことはない」、という反論は残念ながら難しい。
なぜならそれは、小学生でも分かる単純な算数の掛け算で立証されているからだ。
2/3×2/3=4/9
算数の教科書の中で、この計算式を正解と認める大人が、
どうしてこの少数派と多数派の理論を否定することができようか。
そして、現実を受け入れたのであればもう理解できるように、多数派を選べば選ぶだけ、圧倒的な少数派になっていく。
2/3×2/3×2/3=8/27
2/3×2/3×2/3×2/3=16/81
2/3×2/3×2/3×2/3×2/3=32/243 …
これらの式が表す意味から、目を背けることはもうできないはずだ。
人と違う、が大したことではない理由
ここまでを踏まえると、
“多数派でいるために”、周囲の様子を伺い、波風を立てないように気づかい、ひっそりと目立たないように“みんなと同じ”を選び取る行為が、いかに無意味かということに気付かされる。
だって結局、その努力や苦心、消耗は本来の目的のためになんの効果も発揮していない、むしろ目的を逆行しているからだ。
そうなると、もう、周囲の様子や反応を気にすることがばかばかしく思えてはこないだろうか。
周りのことなんか気にせずに、自分の思う方の選択肢を選び取れば良いのだ。
少数派、多数派なんて考えなくていい。
そんな、幾多の個体数が集まった全体をたった2分割するだけの言葉なんて、
気にするだけ時間の無駄、人生の無駄であることに気付くだろう。
おまけ
スクールゾーンを抜け、街の景色が住宅街から市街地のそれへと変わる。地下鉄の入口に滑り込みながら、啓喜は、自分の意識が寺井家の父親から一人の社会人へと入れ替わっていくのを感じる。
朝井リョウ著『正欲』本文より
この文章も、読んでいて印象に残った。
自宅の最寄り駅からだんだんと会社の最寄り駅に近づいていく間。
電車を降りて、改札を出、会社に向かって歩いていく間。
自分の意識が一人の社会人へと切り替わっていく感覚は、とても共感できる。
こういう、なんとなく自分が普段から感じていた感覚が、
本を読んでいてふと言語化された瞬間。
この瞬間が本当に好き。
ああ、これだ、自分が感じていたのはこういうことだ、と腑に落ちたときのスッキリ感は、本を読む者だけが得られる幸運だと思う。
おわりに
久々に、人間の内面に踏み込んだ重厚なテーマの作品を読んだような気がする。
小説はそれが書かれた時代背景、
たとえば自由恋愛が流行り出した明治の作品であれば、今を生きる我々とはまた少し違った感覚を持つ登場人物たちの葛藤などを読み取ることができ、面白い。
それと同じように、この作品は令和の時代を生きる人々の心の中をえぐり出した、良い意味での、
令和の問題作といえるのではないだろうか。
変化が激しい今の時代、5年後や10年後がどうなっているのかなんて想像がつかない。
その頃、再びこの作品を読んだら、自分は何を感じ取り、何を考えるのだろうか。
何年か後にもう一度読み直したいと思える作品と出会えて、とても幸運だ。
何年か後の自分が、今日のこのブログ記事を読んで、『正欲』を再読する日が来ることを楽しみにしたいと思う。
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